唐代の科挙が宋代の科挙と異なって貴族性の存続

唐代の科挙が宋代の科挙と異なって貴族性の存続を許したのは何故ですか?唐代の科挙が宋代の科挙と異なって貴族性の存続を許したのは何故ですか? 科挙は隋の文帝が創始し、当初は地方の有力者の参政権拡大が目的でしたから貴族の参入を狙っていたとみてよいでしょう。唐代に入って科挙制度は大いに発展しますが、それでも科挙に参加する人が合格するには貴族の推薦が必須でした。政府の要職を占めるのが貴族である以上、唐代の科挙出身の人士の立場が弱いのは仕方の無い事です。

 

こういった貴族の寡頭体制が変化するのは則天武后が自身の権力を強める為に非関隴集団の新興勢力を取り立てたのが始まりです。玄宗の治世で貴族は勢力を盛り返しますが、安史の乱の勃発により地方の藩鎮勢力が伸張し科挙人士を優遇した事により科挙人士、要するに儒家官僚集団が真の意味で台頭しました。更に晩唐期の中央政府での権力闘争そして唐末の朱全忠の官僚に対する大規模な粛清により貴族は没落しました。

 

そんな訳で宋代では勉学して官途に就くと言う出世の方程式を阻害する勢力が弱くなったので(貴族層が壊滅したので)、科挙制度が完備されたのです。もちろん読書に専念出来る家庭は大体に於いて富農ですので、見方を変えれば官僚の採用対象を特定の地域の有力者から全国範囲に拡大しただけ、とも言い得ます。無論社会的地位の高くない家系が政府の要職を担当出来るようになりましたが(然し近年の研究では科挙に合格する人々は往々にして先祖に科挙合格者を持っているそうです)。科挙制度により寡頭体制は是正されましたが、却って儒家官僚集団が一種の教団となって中央政府を牛耳る事にもなりましたし、地方で実務を担当する官職(胥吏)は実の所世襲制に近いので、やっぱり一種の貴族政治でしょう。ありがとうございます。

本当にためになりました。